Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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<Meta-bioethics>の試み:<生命倫理>の基礎論的探求へ向けて
2006.5-2006.12.15.

まず、本論述における基本的な分析対象として、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(以下「遺伝子改変」とする)」というテーマを設定した上で、このテーマを巡る正当化の論理を考えてみたい。まず、分析対象の第一の事例として、「私にとって遺伝子の改変が許されないと思うのは、それが運用上、難病の予防という目的に限定され得ないと考えられるからだ」を設定する。よって、以上の主張は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(遺伝子改変)はしてはならない。何故なら、それが、運用上、難病の予防という目的に限定され得ないと考えられるからだ」となる。
次に、この主張に対して、以下の問題提起を行う。
この主張は、「難病の予防」という目的に関しては、遺伝子改変を肯定しているといえるのか。また、もしこの問いに対する答えがイエスであり、「難病の予防」という限定された目的であれば遺伝子改変が肯定されているのだとすれば、その限定に関わる特権性はどのように考えられているのか。言い換えれば、もしここで、「難病の予防という目的に限定すれば、遺伝子改変は肯定され得る」と主張されているのだとすれば、さらにその主張の正当化の論理はどのようなものなのかが問われなければならない。この正当化の論理を、仮に「難病の予防の特権性」の論理と呼ぶことができる。
この「難病の予防の特権性」の論理と、「終末期状態において無意味かつ継続的に苦痛を強いる」ものとして位置づけられた「延命医療」の拒否を正当化する論理(以下「延命拒否の論理」とする)とは通底している。ここで「通底している」とは、これら両者の正当化の論理が共有する、何らかの一貫した正当化の論理が想定可能であることを意味する。同様に、「延命拒否の論理」と「(消極的または積極的)安楽死」の論理は通底している。
ここまでの記述で想定されたのは、「難病の予防の特権性」による遺伝子改変の正当化の論理、「延命拒否の論理」、「(消極的または積極的)安楽死」の論理が、何らかの一貫した正当化の論理という基盤において通底しているという事態である。
そこで、この「何らかの一貫した正当化の論理」を、次のように記述する。
正当化の論理:「難病」や「終末期状態」という概念に関わる、あるいはそれら概念が指示する状況においては、または将来的にそういった状況の実現が予想されるという条件の下では、(将来的に生まれてくる可能性がある者を含むものとして定義された)他者の生死という分岐を操作・決定すること(「受精卵の廃棄等による出生の予防または安楽死等による延命の中止=死」か「出生の許容または延命の継続=生」かの選択行為)が正当化され得る。
この論理においては、ある特定の状況下にある、または将来的にそういった状況下で存在し始める(生まれてくる)ことが予想される任意の他者を、その生死に関して操作・決定の対象とする任意の主体が前提されている。
ここで、他者の生死という分岐を操作・決定する思想と実践の総体を、以後「生命の選別操作」という概念で略称する。
 従って、ここまでの記述において、「難病の予防の特権性」による遺伝子改変の正当化の論理、「延命拒否の論理」、「(消極的または積極的)安楽死」の論理が、生命の選別操作という概念に基づいた正当化の論理という基盤を持つという事態が想定された。この想定のもとでは、難病の予防に限定した遺伝子改変の正当化の論理と、この限定を欠いた場合に遺伝子改変を批判あるいは拒絶する論理は、ともに「生命の選別操作」という概念に基づいた正当化の論理の統御下にあると考えられる。
もちろん、上記の論理において、「難病」や「終末期状態」という概念、さらには「予防」、「延命」といった概念の意味内容がさらに問われ得る。同様に、ここでは曖昧なままにとどまっている「予防」や「延命」、「拒否」、「安楽死」といった概念に関わる、またはそういった概念が指示する事態とはどのような事態なのかと問うことができる。
 次に問われ得るのは、先の「運用上」という表現で、具体的にはどのような事態を想定しているのかということである。一つの仮説としては、たとえ法的・制度的に難病予防という目的に限定されていたとしても、あるいはむしろ、法的・制度的に難病予防以外の目的が「禁止」されているからこそ、「運用上」あるいは現実的な状況下において、その遺伝子改変という操作が難病予防という目的を逸脱する何らかの「予測不可能な事態」に遭遇する可能性をゼロにはできない、というものが考えられる。ここでは、何らかの「予測不可能な事態」に遭遇する可能性が不可避なものとして主張されている。言い換えれば、予測不可能性の排除という任意の行為が不可避的に破綻するという意味における原理的な予測不可能性が主張されている。すなわち、先の主張においては、そういった事態はあってはならないにもかかわらず、それによって不可避的に生じてしまうという意味で遺伝子改変という操作が批判的に焦点化されていると想定できる。
だとすれば逆に、予測可能な事態しか帰結し得ないような操作であれば正当化され得るという論理、あるいは、想定される任意の事態(帰結)に関して予測可能性がそれによって判定される何らかの基準が存在するような操作であれば正当化されるという論理は成立するだろうか。だが、こういった論理は、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進において解体する。
また、ここで予測の対象として、「単なる予測不可能な事態」と区別された「現実的な効果をもたらす事故accident」を想定した上で、現実的な状況下における予測可能性の基準を構想しようとしても同様の結果に陥る。遺伝子改変に関して現実的な効果をもたらす「事故accident」を想定することは、単なる想定の内部にとどまることになる。そういった単なる想定の内部では、これら両者(「単なる予測不可能な事態」と「現実的な効果をもたらす事故accident」)を弁別する境界線(基準)は存在しない。言い換えれば、先に想定された「単なる予測不可能な事態」は、ここでの「現実的な効果をもたらす事故」と弁別不可能であり、この「現実的な効果をもたらす事故」に関しても、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進が生じることになる。従って、遺伝子改変という操作に関して、想定される任意の事態(帰結)の予測可能性を保証する基準あるいは根拠は存在し得ない。
上記の「運用上」という表現に関して、さらに踏み込んで考えてみたい。先の主張において、「運用上、難病予防という目的に限定され得ない場合」として、以下のような事態が想定されていると考えることができる。遺伝子改変という操作が、その現実的な遂行に関して、任意の「許認可システム」の「管理=制御者」の管理=制御下にある場合に、たとえ遺伝子改変という操作の現実的な遂行の許認可が法的・制度的に難病予防という目的に限定されていたとしても、あるいはむしろ、法的・制度的に難病予防以外の目的が「禁止」されているからこそ、現実の「管理=制御者」の意思決定=選択行為において、難病予防という目的からの逸脱が現実に生じてしまうという可能性をゼロにはできないという事態である。ここでも、こういった事態が想定され得るということが、遺伝子改変という操作自体が許されない理由となり得るのかとさらに問うことができる。
次に、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(遺伝子改変)はしてはならない」という主張の正当化の論理の事例として、「子どもは、親またはカップルの欲望に応じて存在するものではない」を想定する。
この主張は、「子どもは、親(「シングルマザー」等の一個人の場合を含む。以下同様)またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つかどうかという基準に従って<存在させられる>かどうかが、または<その出生が許容される>かどうかが決定されるという事態が正当化され得る存在者ではない」と言い換えられる。
以上を、遺伝子改変という操作により接近させて言い換えるなら、「子どもは、親またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つように<予定された形で>この世界へと存在させられてはならない(また逆にそうした生存価値を持ち得ないことが想定される場合に、この世界への出生が阻却あるいは予防されるような存在者であってはならない)」という論理である。この場合の「子ども」は、まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者と想定されているが、同時に、上記の「生命の選別操作」の対象として想定されている。
上述の意味で「子ども」が生命の選別操作の対象とされる場合、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という事態(遺伝子改変という操作)は、以下の諸要素を同時に含意することになる。すなわち、(1)親またはカップルが、子どもが自分たちの欲望に応じた生存価値を持つかどうかという基準に従った意思決定=選択行為をする。(2) 親またはカップルが、上記の基準に従って、「遺伝子改変という手段を使用した子どもの(非)生産」を行うという意思決定=選択行為をする。(3)この場合、遺伝子改変という技術的手段の現実的な状況下における使用(遺伝子改変という操作の現実的遂行)は、専門的医療技術者(集団・制度的メカニズムの総体)という親またはカップルにとっての他者に委託される。(3)-2言い換えれば、専門的医療技術者(集団・制度的メカニズムの総体)による上記手段の実行は、親またはカップルによる意思決定=選択行為を前提としたその委託された実現という形式を取る。
以上は、生命の選別操作の対象としての子どもがこの世界へと<存在させられる>かどうかが、または<その出生が許容される>かどうかが、親またはカップルの意思決定=選択行為によって、すなわちその意思決定=選択行為を根拠として決定されるという事態である。
さてここで、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない」という主張がさらに、この場合の子どもは、「たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」という含意を持つとする。なお、ここで「含意を持つ」とは、先の主張に続けて、そのような記述が同一の(発話の主体でもある)記述主体によって為されたという想定された事態を意味するものとする(以下同様)。
ここで「親とは別の」(または他の誰とも別の)、その意味で一個の独立した人格を承認されているのは、ヒトの受精卵や胚細胞、さらには母胎血中細胞といった生殖細胞系列の現存を通して、これから生まれてくると想像されている何か(まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者)である。さらに、たとえそういった生殖細胞系列が現存していなくても、単に仮想された状況において(いわば思考実験において)、これから生まれてくる者として想像されている存在者である。それは、そのような意味において、「生まれてくる前の子ども」と呼ばれる。また、その未来における存在(あるいは出生という事態)があらかじめ抹消されてはならない(その出生が「予防」されてはならない)存在者として、「これから生まれてくる子ども」と呼ばれる。ここでは、親またはカップルにとっての他者としての、ある仮想的な存在者が想定されており、「独立した一個の人格を有する他者の遺伝子を勝手に変えることは許されない」という原則的な前提が存在する。
その上で、私たちによってこれから生まれてくると想像されている存在者(まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者としての「子ども」)は、親またはカップルとは別の(または他の誰とも別の)、親またはカップルにとっての他者として一個の独立した人格を持つのであり、「そうである以上、これから生まれてくる子どもの遺伝子を勝手に変えることは許されない」と主張される。
この主張に対して、以下のような問題提起が可能である。
まず、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論を想定する。
その上で、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」という主張をする者が、上記の「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論を原則として認めるとする。
その場合、この者は、「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という主張を、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてはならない」という主張の論拠とすることができるのか。
あるいは、上記の「個々人が、生まれてくる前の(……)私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論を認める者が、「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」を同時に主張することは、自らを正当化できないのか。
以上の二項対立的な問題提起を吟味するために、さらに次のように問うことができる。
ある個人の価値観が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に肯定的であった場合、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という主張をする者は、「子どもという親またはカップルとは独立した一個の別人格を持つ他者」という概念を、そういった価値観への批判の論拠として自覚的に位置づけているのか。
ここで、ある者が遺伝子改変を肯定する価値観への批判の論拠として、「子どもという親またはカップルとは独立した一個の別人格を持つ他者」という概念を自覚的に位置づけているとは、次の事態を意味する。すなわち、その者が、「遺伝子改変を肯定する価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論を原則として認めながらも、なおそういった概念に依拠した上記価値観の批判を正当化可能な試みとして位置づけながら遂行しているという事態である。その場合、我々は、「個々人が、生まれてくる前の(……)私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論を認める者が、同時に「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を主張するという事態を、単純に正当化不可能なものと位置づけることはできない。
もちろん、現実にこの自覚のレベルの判断を行うとするなら、こうした主張をするそれぞれの個人へとさらに問いかけていく必要がある。だが、この問いかけるという行為そのものが不可避的に自覚を導入してしまうという効果を持つことから、その判断(「自覚のレベル」を確定すること)は、非常に困難であるか、ほとんど不可能であるだろう。
だが、たとえそうであっても、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論は、特権的な正当化の力を持つ論理という位置を占め得ない。すなわち、特権性の見かけを持つこの論は、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を、また一般にどのような論をも掘り崩す力を持つことはない。
これまで「個々人が、生まれてくる前の(……)私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論を認める者が、同時に、「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を主張するという事態が想定された。
次に、この者(発話と記述の主体)が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることに関する個々人の価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできないにしても、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である」という主張を行うと想定する。
その場合、この者には、「個々人の価値観」に由来するものとして捉えられた「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定あるいは否定という両極の間で揺れ動く半ば無意識の葛藤があると考えられる。この葛藤には、「遺伝子改変という操作を現実的に遂行するかどうかの意思決定=選択行為は<個々人(以下「個人」)の価値観>に依拠する」という観念が、何らかのあり方で(葛藤そのものと同様に半ば無意識の形で)内在しているのではないか。
そもそも、私たちにとって、「これは個人の価値観による自由な選択である」といういわばコミュニケーションの壁を超えようとする意欲は、一般的な心理学的事実として生まれにくい。ところで、個人の価値観は、それら個人が遭遇する多様な経験との関わりで形成される。次に、「個人の価値観」と「経験」との関わりについてさらに考えてみたい。
例えば、ある個人が、他の個人またはカップルから、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いたとする。この場合、その個人は、話を聞いた相手の価値観を、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話から推測することになる。言い換えれば、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いて、そのような経験をした、あるいはそのような意思決定=選択行為を行った「個人の価値観」を推測する。
ここで、そうした経験を、その個人またはカップルの意思決定=選択行為として捉える(記述する)ことができる。すなわち、この経験は、それ自体、その都度の意思決定=選択行為の生成過程として捉える(記述する)ことができる。
以上の事態は、その個人またはカップルの意思決定=選択行為が、その経験を通じて、その経験と不可分なものとして生成したという形で記述可能である。また、もしその中絶という経験または意思決定=選択行為が、その個人またはカップルにとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または意思決定=選択行為によって、あるいはそれを通じて、「その個人またはカップルの価値観」が何らかの様態において生成したと考える(記述する)ことができる。
つまりこの場合、意思決定=選択行為を導く「個人の価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、「個人の価値観」が何らかの様態において生成したと考える(記述する)ことができる。
すなわち、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を、個人またはカップルが「再帰的に(記述可能なものとして)捉えた(=記述した)」ときに、その個人またはカップルにとって「自らの価値観」が立ち現れてくる(生成する)。このとき、再帰的に(記述可能なものとして)捉えられた個人またはカップルの意思決定=選択行為は、同時にこの個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として捉える(記述する)ことができる。
次に、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という先の伝聞対象としての経験を、個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として捉えた(記述した)上で、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人、すなわち上記の個人またはカップル以外の任意の個人としての<私たち>がこの価値観を対象化するという事態を考える。なお、ここで「対象化する」とは、「再帰的に(記述可能なものとして)捉える」ことを意味するものとする。
<私たち>がこの価値観を対象化する(または対象化しようとする)場合、この価値観は、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人、すなわち上記の個人またはカップル以外の任意の個人である<私たち>にとっても了解可能なものとして、あるいは個々人の多様な言葉を通じて何らかの共有された核を持ったものとして捉えられている。このとき<私たち>は、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験または行為を、我がことのように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。
ところで、こうした想定を何らかの共有された核としたときに現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>にとって再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)考え方の枠組みが、単に一般的なものとして捉えられた(記述された)「個人の価値観」である。それは例えば、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば(想像すれば)、中絶を否定することはできない」といった記述(言表)が表現する価値観ということになる。
ここでのポイントは、この意味での「個人の価値観」は、先に見た、経験と行為の、意思決定=選択行為としての成立過程の総体を、個人またはカップルが再帰的に(記述可能なものとして)捉えた(記述した)ときに、その個人またはカップルにとって立ち現れてくる(生成する)「自らの価値観」とは厳密に異なるということである。言い換えれば、それは、先の「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という記述(言表)における「個々人の価値観(個人の価値観)」なのである。
より抽象的なレベルで定義するなら、この意味での「個人の価値観」とは、「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という記述(言表)における「個人の価値観」である。また、上記記述(言表)における「私たち」とは、その都度焦点化される任意の現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>である。
さて、「遺伝子異常」(先の表現をここではそのまま使用する)が見つかった子どもを中絶することは、「生命の選別操作」という概念に包摂される意思決定=選択行為であるといえるだろう。だとしても、<私たち>にとって単に一般的なものとして捉えられた、「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだ」とする「個人の価値観」を持つと想定されるそれぞれの個人において、そのことへの認識があるのか無いのか、またあったとしてもそれがどのような内実を持った認識なのかは、<私たち>にとっては明らかとはならない。
従って、仮に<私たち>が「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだとする価値観は、生命の選別操作を肯定するものである」と主張したとしても、その主張はそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。この事態は、先に見た、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、<私たち>はその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論理(より抽象的には「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という論理)がそれ自身の正当化の根拠を持たないという事態と同じ位置を占める。
すなわち、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者として規定された<私たち>によるその現実の意思決定=選択行為の「価値付け」と「価値相対主義的中立化」という上記二つの操作=記述行為は、いずれもそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。
先に、ある個人が、他の個人またはカップルから、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いたと想定した。そこで、さらにこの個人が、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない。遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という記述(または発話)を行うと想定する。
以上の想定を前提するなら、この個人は、中絶をした他者の話と、中絶をしなかった他者の話の両方を直接または間接的に「聞いたことがある」ということになる。だが、この個人が、「では自分ならどう考えるのか、どう行動するのか」という問いを自分自身に問いかけたのかどうかはわからない(その点に関してはここではまだ想定されていない)。また、「いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という言葉が、どこまで他者自身によって語られたものなのか、あるいは、(対面的にではなくても間接的に記録媒体を通じた場合をも含む)他者の発話そのものを伝えたものでないのだとすれば、どこまで他者自身の思いを汲み取り得たものなのかもわからない(その点に関してはここではまだ想定されていない)。
想定されたこの個人は、中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者である<私たち>の内の一人である。だが、このことから、この個人は「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい(あるいは逆に、遺伝子異常を持っていたとしても生むべきである)」という「自らの価値観」を持っていないとは必ずしもいえない。この個人が、たとえ中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではなかったとしても、それによって先の「自らの価値観」が生成した他の何らかの現実の意思決定=選択行為の主体であったことはないとは必ずしもいえないからである。
そこで、さらに次のような問題設定を行うことができる。
例えば中絶あるいは遺伝子改変という焦点化された意思決定=選択行為に関して、その主体ではない任意の者である<私たち>が、同様にその意思決定=選択行為の主体ではない任意の者である他の<私たち>に関して、例えば「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい(あるいは逆に、遺伝子異常を持っていたとしても生むべきである)」という特定の「自らの価値観」を持っているのかどうかを問うということは、そもそもどのような事態なのか。
以後、この問いかけに向かうに際して、まずはそれぞれの個人に関して、例えば「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい(あるいは逆に、遺伝子異常を持っていたとしても生むべきである)」という「自らの価値観」がそれを通じてそれぞれの個人にとって再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)ような、経験と行為の、意思決定=選択行為としての成立過程の分析作業が要請される。
ここにおいて、それぞれの個人に関して先に定義した意味での「自らの価値観」を特定することの困難さ、さらには「ある個人がある事柄に関してある一定の価値観を持っている」と誰かが誰かに関して判断することの困難さが浮上する。もちろん、このことは、他者に関してのみならず、この私が私自身に関して、「ある事柄に関してある一定の価値観を持っている」と判断することの困難さをも示している。
さて、次に、先の個人が、「いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という記述(または発話)に続けて、「実際にそうした立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」という記述(または発話)を行うと想定する。
この記述(または発話)においては、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてよいのかどうか」や、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもの出生を予防してよいのかどうか」といった「深刻な問題」に関して自ら判断することの困難さがかなり意識されている。また、現在の自分は、何らかの「明確な基準」がなければ、そうした問題に関して判断できないと思われているのかもしれない。だが、少なくてもこの段階では、こうした基準の内容についてさらに考えてみようという自発性は見られない。もしそうだとすれば、この個人が、こうした問題に関する自分自身の判断を、外部から与えられた何らかの「判断基準」(と思われる何か)に委ねてしまうという事態につながり得る。
ここで、明確な基準なしには「ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」とは、一体どのような意味なのか。もしここで、「明確な基準」が何らかの歯止め(禁止)または制限(限界領域の設定)として、あるいはそのような機能を持つ何らかの法制度的なメカニズムと考えられているのなら、やはりこの基準は個々人の選択にとって外部から「与えられる何か」として想定されている。だとすると、この「明確な基準」さえ確立されれば、その基準の「許す領域の内部」あるいは「禁止する領域の外部」において出生前の選別操作を認めてもいいのかどうか、言い換えれば、その基準は出生前の選別操作をある領域の内部において認めるものなのかという問題に関する判断は、ここでは保留されている。実際には、この「領域=X」の確定は、先に予測可能性を保証する基準及び「管理=制御者」の意思決定=選択行為に関して述べたように不可能なものにとどまる。
いずれにしても、この判断が保留されていると想定される限り、またこうした「基準」の内実をさらに思考していくことが回避されていると想定される限り、先の個人に関して何らかの「価値観」を特定することはできない。すなわち、この個人に関して、「自らの価値観」という意味における何らかの「価値観」を持っているとも持っていないとも言えない。またこの個人が「生命の選別操作」というテーマを巡る問題に直面した場合、ある行為を選択することは非常に困難なものとなることが予想される。
もちろん、以上述べられたことの全ては、この論述の記述主体である私自身への、そしてこの論述の読者への鋭い問いかけにもなる。
これまでの論述の成果として、それぞれの個人に関して、ある一定の「自らの価値観」がそれを通じてそれぞれの個人にとって再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)ような、経験と行為の、意思決定=選択行為としての成立(生成)過程の分析作業が要請された。そこで、以下の論述(想定された事例の分析作業)においては、この意味での再帰的な過程分析の精緻化が目指される。なお、以下の論述においては、それぞれの想定事例に関する「記述(または発話)」という表現を単に「記述」と略記する。
以下、第二の想定事例の分析に移る。
一人の人間が、「それが誰であっても、この世に生を受けた以上、健康で暮らして欲しい」といった、一見素朴で誰にもありがちな、その意味でありふれた願いを語った(あるいは書いた)としても、その記述が置かれる文脈は、もちろん人により様々に異なっている。ごく一般的な観点からは、この文脈はある一つの記述とその前後の記述との関係から問われ得るし、またこうした記述がそこに置かれる多様な他者関係からも問われ得るだろう。ただし、分析対象としての想定された事例が分析に先立って与えられたとしても、想定された事例に関して遂行されるその都度の分析作業から離れて、あたかも事例としての記述がそこへと置かれる場が事例に先立って存在するかのように、この「文脈」をあらかじめ想定することはできない。
ここでは、この「文脈」を、複数の記述の前後関係それ自体の生成過程という視点から分析する。さらに言い換えれば、「文脈」として、ある記述とその記述に引き続くいくつかの記述との関係それ自体の生成過程を考える。先に述べた、経験と行為の、意思決定=選択行為としての成立(生成)過程の分析作業は、ここでは、一連の記述行為という言説実践として遂行される「文脈」生成過程の再帰的分析となる。
この分析に際して、第二の事例(の冒頭部分)として、まず、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述を想定する。さて、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」という記述と、「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述を合わせて考える上で想定できる文脈はどのようなものだろうか。言い換えれば、これら二つの記述が関係付けられる文脈生成過程とはどのようなものなのか。さらには、これら二つの記述が関係付けられる文脈生成過程に、本論述の冒頭で提示したテーマ文はどのような関係を持っているのか。この最後の問いは、これら二つの記述がある一定の様態で関係付けられる文脈生成過程において、冒頭で提示したテーマ文が、自らへの応答を要請する力として介入することを想定している。
前者の記述だけを見ると、先に述べた一見素朴で誰にでもありがちな、ありふれた言葉に思える。だが、これら二つの記述をその相互関係の生成過程に着目して見ると、ある複雑さが生じてくる。ここで、既述のように、これら二つの記述がある一定の様態で関係付けられる文脈生成過程において、冒頭に示したテーマ文が、自らへの応答を要請する力として介入すると想定する。すると、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もある」までの記述では、場合によっては、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えて難病を予防するといった技術的介入を可能にする「医学の進歩」によって、それなしにはあり得なかったはずの健康な生が可能になるという状況が比較的素朴に想定され言及されているとも言える。こうした状況は、もしそれが可能なら、「医学の進歩」によって生じた「喜びや希望」である。すなわち、「医学の進歩は喜びや希望もある」。従って、第一の記述と第二の記述の「医学の進歩は喜びや希望もある」までの部分が生成してくるこの段階においてすでに、冒頭のテーマ文への応答的な文脈の生成過程として、これら二つの記述がある一定の様態において関係づけられている。
もちろん、ここで「医学の進歩」あるいはその結果としての「喜びや希望」に特に関わる事例として遺伝子改変が想定されていると断定することはできない。こうした想定は、あくまで仮説にとどまる。だが、もし「医学の進歩は喜びや希望もある」という記述がテーマ文1を受けた応答的な文脈生成過程の内にあるのなら、またこの記述に引き続いて「そればかりではないのではとも思う」という記述がなされている点に注目するなら、そうした可能性は高いといえるだろう。
だとすれば、先の二つの記述、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」と「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」は、さしあたりの仮説として、以下のような文脈生成過程において関係付けられているといえる。
すなわち、他者の、または自分自身の子どもに関して、場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような「医学の進歩」によって、必ずしも「喜びや希望がある」とは言えない生がもたらされる可能性も考えられるということである。
もっとも、二つの記述の関係を巡る以上の分析は、これら記述から想定され得る以上の意識化のレベルを読み込んでいる可能性がある。なお、論述のこの段階での「意識化」とは、その都度の記述主体としての個人にとって、一定の(例えば上述の分析結果の様態を取った)言語的対象化という事態、すなわち記述可能な形での対象化が生成しているという事態を含意するものとする。
すなわち、これら記述から想定され得る以上の意識化のレベルを読み込んでいるとは、先の二つの記述を行った個人は、上記分析に見られるような意識化のレベルにはなかった、むしろ、そういったレベルにまで言語的に分節あるいは分析されていない対象化という意味における意識化のレベルにあったのではないかということである。
とはいえ、仮に上記分析に見られるような意識化のレベルにはなかったとしても、上記の分析の射程内にあったといえる。
他方、上記分析の意識化のレベルにあったと仮定しても、遺伝子改変それ自体の持つ意味については言語的に対象化(意識化)されてはいないと言える。言い換えれば、この個人が上記分析の意識化のレベルに達していようといまいと、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述から可能な分析の射程距離は、(遺伝子改変を含むと仮定した)出生前の技術的介入それ自体が持つ何らかの意味へと限定したテーマには届かないと考えられる。この個人が、この段階において、(遺伝子改変を含むと仮定した)医学の進歩は喜びや希望をもたらすかもしれないが「そればかりではない」という記述によって表現される対象化(意識化)のレベルにある限りは。
というのも、「そればかりではない」という対象化(意識化)のレベルは、(遺伝子改変を含むと仮定した)出生前の技術的介入による効果(医学の進歩)=Aが、「喜びや希望をもたらす=X」という属性を持つかもしれないが、「それ=X以外の何か<non-X>」の属性をも持つのではないかという判断を表出している。言い換えれば、ここでは「A=X」と判断し得る可能性と「A=<non-X>」という判断――ここでの「A=<non-X>」はX以外の非限定領域を肯定する無限判断であり、「A= non X」という与えられた限定領域内部における否定判断とは異なる――とが単に並置されているからである。
 次に、先の「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述に引き続いて、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述がなされたと想定する。
ここで、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」は、「延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか」と読める。だが、このことは、次の「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述とどのような文脈関係にあるのか。
この記述の主体としての個人にとって、ここで考えられている「延命」が、高度な医療技術による介入によるものかどうかは判然としない。一般に、現代医学においては、また一般的な社会的認識の地平においても、「延命」と「高度な医療技術による介入(及びその効果。括弧内以下省略)」はほとんど同義であるはずだが、この個人にとっても同義であるものかは分からない。また、これら両者が必ずしも同義ではない可能性についてあらためて考察されているともいえない。さらに、ここでは、「個人の生命の尊厳を無視しない延命方法」と「無視する延命」とが二項対立的に区別されているように見える。だが、ここでの記述のみからは、その区別の基準が具体的にどのようなものなのか、明確に読み取ることはできない。とりわけ、ここで言及されているように見える「個人の生命の尊厳を無視しない延命(医学的介入)方法」が具体的にどのようなものとして考えられているのか明確に読み取ることはできない。
少なくてもここで、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という先の記述と、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という記述の両者を関係付ける一定の文脈を明確な形で抽出することは困難である。
だが、明確な形ではなくても、これまでの分析結果を次のようにパラフレーズして示すことができる。
すなわち、
想定された記述の事例である「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う。延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という記述は、『他者の、または自分自身の子どもに関して、場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような「医学の進歩」によって、必ずしも「喜びや希望がある」とは言えない生がもたらされる可能性も考えられる。(言い換えれば――以上をさらにテーマ文の介入に関わる文脈を考慮して敷衍すれば――場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した、または遺伝子改変を主体とした「延命方法」による難病の克服等の喜びや希望もあり得るが、他方、それにより必ずしも喜びや希望があるとは言えない生がもたらされる可能性も考えられる。)だが、延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか』
という形にパラフレーズ可能である。
なお、ここでは仮に、括弧内の補足的解釈に沿って「だが」という逆接詞を付加しているが、上述のように、実際にはこの前後の記述を関係付ける一定の文脈を十分明確な形で抽出することは困難である。
さらに、もしここで、場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した高度な医療技術による介入という意味で「延命」を考えるなら、「つまり」という言葉によって、そうした「延命」を、それに引き続く「ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述どのように関係付けることができるのか。ここで、再び以下に分析対象の記述を提示する。
「延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」
まず、場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した(遺伝子改変という技術的介入の可能性をも排除しない)高度な医療技術による介入という意味で「延命」を考えた場合、そういった「延命」が、同時に個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないというどのような「延命状況」が想定可能だろうか。ここでは、何らかの個別的状況が、一体どのような意味において「個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならない」と言い得るのかという問題をこれ以上検討することは困難である。また、この記述主体にとっての「個人の尊厳」という概念の内実についての分析も不可能である。
さらに、次の問題はより困難なものである。
すなわち、仮にそうした「延命状況」が想定可能だとした場合、その「延命状況」が――「つまり」という接続詞によって関係付けられていることを考慮するなら――同時に「ひとつの生に対して純粋に受けること」でもあるという事態をどのように考えればいいのか。
そもそも、「ひとつの生に対して純粋に受けること」とは、一体どのようなことなのか。例えば、それを「ひとつの生の純粋な受容」とより簡潔に言い換えたとしても、では、それは一体どのような事態なのか。とりわけ、鍵となる「純粋」という表現に関する記述主体の想像的なイメージが(もし存在するとして)どのようなものであれ、おそらく現実的な状況としては、その「純粋」という表現(あるいはそれに関わる想像的イメージ)は――既述のように、ここでは何らかの「延命状況」が、「つまり」という接続詞によって「ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」という表現と関係付けられているのだが――あらゆる高度な医療技術による介入の「不在」という事態に到達することはないだろう。他方、ここでの「純粋」という表現によって、あらゆる高度な医療技術による介入の「不在」という事態が想定されているのかどうか明らかではない。
だが、いずれにしても、ここでは、場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した高度な医療技術による介入としての「延命」が、同時に、「純粋」な「技術的介入の不在」でもあり得るという事態が、必ずしも記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)されない様態において想定されているといえるのではないか。


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